1996 年、フィンランド北部の町 Kemi にて "TRICKY BEANS" という奇妙な名前のバンドが結成された。このバンド、当初は SPIN DOCTORS のカヴァーをするなど、ヘヴィメタルとはかけ離れた音楽をプレイしていた。バンドは初のデモテープ 『Friend Till The End』 を同年夏にリリース(収録曲は "Friend Till The End" , "Blackout" , "Find A Gun" , "Letter To Dana" の 4 曲)。この時のラインナップは、 Tony Kakko (vo./keys.) 、 Jani Liimatainen (g.) 、 Marko Paasikoski (g.) 、 Pentti Peura (b.) 、そして Tommy Portimo (dr.) の 5 人。このデモに収録されていた "Blackout" (注: SCORPIONS のカヴァー曲ではない)という曲が、ラジオマフィア主催の「ヒットソング・コンテスト」でトップ 40 に入るほどの人気をみせた。この時ラジオ局に送られてきた音源は実に 500 曲以上と言われる。
Jyrki Sahkosirkus で 2 度ほどショーを行ったバンドは、同じラインナップで 2 本目のデモテープとなる 『Agre Pampers』 を 1997 年初頭にリリース(収録曲は、 "I'm Haunted" 、 "Addict" 、 "Shy" 、 "Appartment 54" の 4 曲)。同年 3 月、バンドは Rock '97 というコンピレーションに曲を提供。同時に 3 枚目のデモとなる 『PeaceMaker』 をリリース(収録曲は "A Bit Lost" 、 "PeaceMaker" 、 "Tallulah" 、 "FrogFeet" の 4 曲)。しかし、夏は表だった活動はなかったようだ。秋口になると、バンドが危機に直面、ベーシストである Pentti がバンドを辞め、リズムギターを担当していた Marko が突如ベースに転向。新曲の数々がリハーサルされ、古い曲はゴミ箱行き。そんな中、バンドは、 "TRICKY BEANS" というバンド名を "TRICKY MEANS" に変更。バンド名に関して多くの混乱を来すことに・・・。
1998 年はバンドにとって特に重要な年ではなかった。しかし、 Marko がベーシストとして続けていく十分な姿勢を見せていなかったため、彼もバンドを脱退。新ベーシストとして同年 11 月に Janne Kivilahti がバンドに加入。
1999 年 1 月、バンドは 4 枚目となるデモ 『FullMoon』 をレコーディングするため、地元にある Tico Tico Studio に入る。この時のメンバーは、 Tony Kakko (vo./keys.) 、 Jani Liimatainen (g.) 、 Tommy Portimo (dr.) 、そして Janne (b.) の 4 人。バンドはこのデモによって初めてヘヴィメタルの世界へ足を踏み入れ、透明なハイトーンヴォーカルを要したキーボード主体のスピーディでメロディアスなヘヴィメタルサウンドがバンドの看板となる。 Tico Tico Studio の Ahti Kortelainen の助けもあって、この 『FullMoon』 デモがフィンランドで随一のメタルレーベル Spinefarm の耳に留まる。ちなみにこのデモに収録されていた曲は、 "Mary-Lou" 、 "UnOpened" 、 "8th Commandment" 、 "FullMoon" の 4 曲。
4 月にはこの Spinefarm と契約を結び、バンド名を SONATA ARCTICA へ変更。デビューシングル 『UnOpened』 が同年 7 月 15 日にフィンランドでリリースされる。同時にこのシングル曲は、 『Metalliliitto 1999』 というコンピレーション CD にも収録された。 "UnOpened" と "Mary-Lou" という恐ろしいほど出来の良い楽曲で、 SONATA ARCTICA はパワーメタル界に見事進出。とは言っても、全てが上手く進んでいた訳ではなかった。 『UnOpened』 シングルの初回生産分が店頭入荷された直後、このシングルのミックス段階で、タイトル曲がテンポダウンされてしまっていることが発覚。初回プレス分全てが回収と相成った。この初回プレス分、その時既に約 200 枚を売り上げており、現在ではコレクターズアイテムとみなされている。
同年の秋、バンドのデビューアルバム 『Ecliptica』 がまずはフィンランドで、続いて各国でリリースされる。このアルバムの成功によって、バンドは 2 枚のトリビュートアルバムへの参加要請を受ける。一つは HELLOWEEN のトリビュートアルバム 『Keepers Of Jericho』 へ "I Want Out" の提供、もう一つは SCORPIONS トリビュート 『A Tribute To The Scorpions』 へ "Still Loving You" の提供。両ヴァージョンとも素晴らしい仕上がりをみせた。この頃、ヴォーカルとキーボードを同時に担当していたバンドの中心人物 Tony は、歌に専念することに決心し、元 KENZINER の Mikko Härkin をキーボーディストとしてバンドに迎えることに。この変化によって、ライヴショーは、よりエネルギー溢れるものとなり、更にキーボーディストを二人擁することで、ライヴサウンドの幅を更に広げることにもなった。
このアルバムリリースから 2000 年初頭にかけ、フィンランドのみならず、世界的にも名の知られるようになったバンドは、 2000 年春にスタートする STRATOVARIUS のツアーにサポートバンドとして抜擢される。各メンバーも大ファンである STRATOVARIUS のツアーに、 15 ものレコード会社が総計 32 バンドをサポート候補として推薦、その中からの抜擢ということで、メンバー自身も当初はこの話を全く信じていなかったそうだ。このツアーは 2000 年 4 月に STRATOVARIUS 、SONATA ARCTICA 、そしてスペシャルゲストにイタリアの RHAPSODY を迎えスタート。およそ 2 ヶ月のツアーの中で、バンドは計 10 カ国でおよそ 30 公演を行う。
成功裡に終わったこのツアーの後、バンドは新たにミニアルバム 『Successor』 をリリース。デビューアルバム収録 "FullMoon" のエディットヴァージョン、未発表曲 2 曲( "Shy" 、 "San Sebastian" )、先述のトリビュートアルバム収録のカヴァー 2 曲、さらに Provinssi Rock でのライヴ音源が収録された。(日本盤にはボーナスとして更に 2 曲ライヴ音源を追加された。)
程なく、 Janne が個人的な理由でバンドを突如脱退。バンドの地元 Kemi で 6 月 30 日に行われたショーが、彼にとって最後のステージとなった。後任として、 SONATA ARCTICA の前身バンドである TRICKY BEANS のオリジナルメンバーの一人であった Marko Paasikoski が迎えられることに。バンドにとってもお馴染みの顔だっただけに、引継は非常にスムーズに進んだようだ。この 2000 年という年はバンドにとって大がかりなツアーやミニアルバム、メンバーチェンジを残したのみならず、メディアの間でも大きな話題となった充実した一年だった。バンドはフィンランドの Emma により "The Best Newcomer Band" 候補にも選ばれ、日本のヘヴィメタル専門誌 BURRN! の読者投票でも見事ブライテストホープ 1 位を獲得。ドイツの各メタル雑誌の読者投票でも上位に食い込む健闘を見せた。
2001 年春には、フィンランドの首都ヘルシンキとオウルで行われたモンスターズ・オブ・ミレニアム 2001 ツアーにて ALICE COOPER と RATT のオープニングを務める。バンドは 2000 年秋から 2001 年にかけ既にセカンドアルバム 『Silence』 の作業を行っており、ファーストシングルである 『Wolf & Raven』 が 2001 年 5 月にリリースされる。アルバム自体は、 『Ecliptica』 を 30,000 コピー以上売り上げた日本での先行発売が予定され、他国がそれに続く形となった。同時にバンドにとっての初来日ツアーが決定し、 9 月初頭に 3 都市 4 公演が行われた。この日本ツアーに先駆け、バンドは 8 月 22 日に日本のみで来日記念特別ミニアルバム 『Orientation』 をリリース。 7 月にスタートしたフィンランドでのツアーの他、バンドはドイツで行われるヨーロッパ最大のメタルフェスティヴァル Wacken Open Air をはじめ、数々のフェスティヴァルに出場するなど非常に精力的な活動を行っている。日本ツアー終了後には、 12 カ国 28 公演を消化する GAMMA RAY 、 VANISHING POINT とのヨーロピアンツアーも成功裡に終了させ、年末にかけてはローカルギグを行っていった。そして、 2001 年末は、フィンランドの首都ヘルシンキにてカウントダウンギグを敢行、ドイツ、フランス、スウェーデン等の欧州諸国からのみならず、日本からも足を運んだファンも多く見受けられ、大喝采の中で 2002 年を迎えた。
そして 2002 年、バンドはさらなるチャンスを得た。チリとブラジルでの公演が遂に決定、フィンランド国内でいくつかのギグをこなしたバンドは、 3 月半ば、初の南米ショートツアーへと向かった。熱狂的なファンに囲まれ大成功を収めた南米ツアーに続き、バンドはフィンランド国内でいくつかのギグをこなしながら新曲の準備を始める。 5 月に予定されていた初のロシア公演(モスクワ)は残念ながらキャンセルになってしまったものの、 7 月にヘルシンキで行われる TUSKA メタルフェスティヴァルへの出演を決めた。 NIGHTWISH 、 SENTENCED 、 BRUCE DICKINSON などが出演したこのフェスティヴァルで早速新曲を一曲披露したバンドは、その後集中的にリハーサルを行い、3 作目に向けて本格的に準備を開始。
だが、 2002 年 9 月 2 日、バンド及びファンにとって非常にショッキングなニュースが入る。キーボーディストである Mikko Härkin が個人的な理由からバンドを脱退。 3 作目となる新作への影響が心配されたが、 STRATOVARIUS のキーボーディスト Jens Johansson をゲストに迎え、レコーディングは無事終了。その後まもなく、 Mikko の後任として REQUIEM 、 SILENT VOICES といったフィンランドのメタルバンドで活躍する Henrik Klingenberg がオーディションに合格しバンドに正式加入。 2003 年 2 月 21 日に Tornio で行われたショーが Henrik のメンバーとしての初舞台となった。翌 3 月、アルバム 『Winterheart's Guild』 リリース後、バンドはフィンランド国内で日本公演に向けたウォームアップを兼ねたギグを数回敢行。その間、日本公演の追加日程も決定、フィンランド国内では 『Victoria's Secret』 がシングルチャートで初の第 1 位を獲得、その後も売れ行きを伸ばし続けており、 SONATA ARCTICA 史上初のゴールドディスク獲得が期待された。その勢いを保ちつつ、 2 度目の来日公演を敢行、大成功理に収め、更に多くのファンを獲得した。
2003 年の夏をフィンランド国内外を中心としたライブ活動で費やしたバンドは、秋以降から新作へ向けての曲作りをスタート。翌 2004 年 2 月には、なんと IRON MAIDEN の日本公演のサポートとして ARCH ENEMY と共にホール級の会場でプレイ。日本でのソナタ人気を一気に世界へ広める結果となった。興奮冷めやらぬ翌 3 月、バンドはスタジオ入りし、 『Reckoning Night』 と題された 4 枚目のアルバムのレコーディングセッションに突入。 Henrik 加入後初のバンドレコーディング作品となるこのスタジオアルバムは、約 3 ヶ月に渡る集中的な作業の末、遂に完成。バンドの新たな所属レーベルとなったドイツの Nuclear Blast からのリリースを待つばかりとなった。
夏はヘルシンキで開催された TUSKA を皮切りにヨーロッパの各メタルフェスに参加。8 月にドイツで行われた Summer Breeze Festival では、早速新曲となるアルバム第一弾シングル 『Don't Say A Word』 をステージで披露、翌 9 月に英国は Derby で開催された Bloodstock Festival に出演、バンド初の英国公演をも実現させた。この英国公演に先立ってリリースされたシングル 『Don't Say A Word』 は、フィンランドのシングルチャートにて「初登場第一位」という快挙を成し遂げ、アルバムへの期待を大きく膨らませる結果となった。
夏はヘルシンキで開催された TUSKA フェスティヴァルを皮切りに、ヨーロッパの各メタルフェスに出演。 8 月 19 日にドイツで行われた Summer Breeze Festival では、早速新曲となるアルバム第一弾シングル 『Don't Say A Word』 をステージで初披露。 9 月 4 日には英国の Derby で開催された Bloodstock Festival に出演し、バンド初となる英国公演は大成功となった。この英国公演に先立ってリリースされたシングル 『Don't Say A Word』 は、フィンランドのシングルチャートで「初登場第一位」という快挙を成し遂げ、アルバムへの期待を大きく膨らませる結果となった。
バンドは、 『Reckoning Night』 が発売される 10 月まで、国内外をプロモーションで費やす。この一環として、 9 月 23 日には Tony と Jani の二人がプロモーション来日を果たし、アコースティックライヴを披露。 10 月 6 日に日本で、 11 日に欧州でリリースされた 『Reckoning Night』 は、フィンランド国内でチャートポジション 2 位を記録した他、ドイツで 77 位、スイスで 85 位、ノルウェーで 69 位、スウェーデン 57 位、スペイン 93 位と他国でも好成績をマーク。引き続き、同郷の TIMO RAUTIAINEN & TRIO NISKALAUKAUS と共に NIGHTWISH のヨーロッパツアーにサポートとして参加、 5,000 人から 10,000 人を集めるアリーナ級の会場で大喝采を浴びる。 12 月 6 日に第二弾シングル 『Shamandalie』 をフィンランド国内でのみ発売、シングルチャート初登場第 3 位を記録。
バンドにとっての 2005 年は、 2 月初旬の来日公演で幕を開けた。初の札幌公演を含む 7 都市 8 公演を消化。 4 日と 5 日の東京公演ではライヴ・レコーディング及び DVD 用ビデオ・シューティングが行われ、ヘンリックが愛用のショルダー・キーボードをはちゃめちゃに破壊するという一幕も。 4 月には米国のスプリングフィールド公演を皮切りに、バンド初の北米ツアーが実現。当初は NIGHTWISH のサポートツアーとして予定されていたものだが、 NIGHTWISH 側の都合によりこれがキャンセルとなり、結局 SONATA ARCTICA のみによるヘッドライナーツアーとして行われた。
バンドは 5 月に行われたドイツの 『Rock Hard Festival』 を皮切りに 8 月一杯まで夏のフェスティヴァルを消化。 8 月 4 日の Wacken Open Air では、 3 度目の出演にして初めてメインステージで演奏を披露、 4 万を超える観衆から大喝采を浴びる。同 8 月 24 日には、バンド初のベストアルバムとなる 『The End Of This Chapter』 が日本超先行発売される。このリリースに合わせて新たなデザインのマーチャンダイズを制作、 9 月 8 日のハンブルクは 『Markthalle』 公演を皮切りにヨーロッパツアーをスタート。サポートはドイツの SYMPHORCE とフィンランドの MACHINE MEN。計 8 ヶ国 14 公演を乗り切る。
10 月 21 日にはヘルシンキは Hartwall Arena で行われた Nightwish のショーにスペシャルゲストとして出演、このショーの後 Nightwish のシンガー Tarja Turunen が解雇された話は有名。その後、量より質にこだわり、フィンランド国内でも規模の大きなコンサート会場を中心に 8 回のみのギグを行う。この国内ツアーが大成功を収め、プロダクション、パフォーマンスともにバンド史上最高の内容を提供することとなった。 12 月末には、バンドのサードアルバム 『Winterheart's Guild』 のフィンランド国内売り上げ 15,000 枚達成を記念し、バンドにゴールドディスクが授与された。
フィンランド国内での大成功に更なる勢いをつけたバンドは、翌 2006 年初頭に再び北米へ。前年夏のキャンセル事件の穴を埋めようと 1 月 14 日の Rochester 公演を皮切りに 2 月 24 日のカナダはケベックでの最終公演まで北米大陸横断の実に 28 公演を乗り切り、北米での確固たるファンベースを築き上げることに成功する。北米ツアー中に、 『Winterheart's Guild』 に続いて 『Reckoning Night』 のフィンランド国内でのゴールドディスク獲得のニュースが飛び込むなど、バンドの歴史に新たな成功のページが書き込まれた。この時点で 『Reckoning Night』 の売り上げは全世界で 10 万枚を超えており、ソナタ史上最も成功した作品となった。
北米ツアー終了後、バンドはライヴ DVD 『For The Sake Of Revenge』のプロモーションも兼ね、ドイツの DORO および Jani が参加していたことでも知られるフィンランドの Altaria と共にヨーロッパツアーをスタートさせる。 4 月 11 日のストックホルム公演から 5 月 13 日のドイツはランゲンでの公演まで計 26 公演を行う。夏はフィンランド国内を中心としたフェスティヴァル出演のみに集中し、 8 月 26 日にはバンドの地元ケミでバンド主催の Sonata Arctica Open Air を開催。これで 2 年に及んだ 『Reckoning Night』 ツアーは大成功裡に幕を閉じた。
その後バンドはライヴ活動を停止させ、 5 枚目のアルバムとなる新作に向けての作業に取りかかる。その間、バンド初の DVD 作品となった 『For The Sake Of Revenge』 がリリースからほんの数ヶ月後にフィンランド国内でゴールドディスクを達成、同年の国内 DVD 売り上げトップ 10 に食い込む大健闘をみせた。
複数のスタジオを駆使して新作 『Unia』 (フィンランド語で「夢」の意。)のレコーディング作業を行う傍ら、バンドはプレスを通じてバンドの公式ドキュメンタリーの制作を公表。撮影クルーは地元 Kemi でバンドの様子や作曲過程をフィルムに収め、この内容は翌 2007 年 9 月に Oulu で開催された音楽ビデオフェスティヴァルで放映された。この他にも 『Winterheart's Guild』 と題された PC 用 RPG の制作も行われており、バンドが音楽以外の面で取り上げられる回数が増えてくる。
『Unia』 が 2007 年 5 月 23 日に日本先攻でリリースされる。これに先駆け 4 月 25 日に新作からのファーストシングル 『Paid In Full』 が日本、フィンランド、ドイツにて発売される。このシングルにはカップリングとして Gary Moore と Phil Lynott の "Out In The Fields" のカバーが収録され、リリース直後にフィンランド国内のシングルチャートで初登場第 1 位を記録、その後もアルバムがリリースされるまでトップ 10 内に居座り続けた。
シングルがリリースされた週にバンドは国内 4 つの有名コンサート会場にて久々のライヴを敢行。キャパは 700 人から 2,300 人とまちまちだったが、各公演ともにソールドアウトの大盛況。しかし、この時バンドは新作からの楽曲を披露したばかりでなく、オリジナルメンバーの一人でもあった Jani Liimatainen に代わるゲストギタリストを起用してのラインナップでステージに登場、ファンを驚かせた。 Jani の不在は彼の兵役義務が原因によるもので、これまでフィンランド国民の義務であるこの兵役に対処しなかった Jani が国から兵役義務を行うよう指示されたのだった。これによってバンド活動に参加できなくなった Jani に代わり、以前 Sonata Arctica のサポートとしてギグを行ったことのあるバンドのギタリスト Elias Viljanen がピンチヒッターとしてバンドに加入、夏のフェスティヴァルをはじめ、 4 本の日本公演をこなすこととなる。 8 月 6 日にバンドは Jani に関する声明文を発表、 Elias を正式メンバーと迎えた。
新たなラインナップとなったバンドは 9 月 7 日から初のメキシコ公演を含む北米ツアー第 2 段をスタート、 10 月 9 日の Houston 公演まで計 24 公演を消化。その後、サポートにオランダの Epica とスウェーデンの Ride The Sky を迎え 10 月 31 日から実に 1 年半ぶりとなるヨーロッパツアーを開始し、バンドにとっての 2007 年は Mikkeli での年越しライヴで幕を閉じた。
2008 年も怒濤のライヴ年となる。 2 月 1 日からバンドは早くも新たなる北米ツアーへと足を運び、ツアー終盤にはチリ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、メキシコを含む久々の中南米を訪れる。 4 月になるとこちらもご無沙汰の英国/アイルランドで計 6 本のショーを行う。 5 月から 8 月までは欧州各地での夏のフェスティヴァルに精力的に参加、 8 月 28 日からは Nightwish との待望の北米ツアーを実現させファンを熱狂させる。
10 月には日本の Loud Park に参加、 1 年 3 ヶ月振りの来日を果たした。日本から帰国後まもなくしてオーストラリアの Vanishing Point およびノルウェーの Pagan's Mind をサポートに迎えてヨーロッパツアーを敢行。 2001 年に Gamma Ray のサポートアクトとして共にツアーをして以来、友人として互いに絆を深めていた Sonata Arctica と Vanishing Point が再びタッグを組むことに初期からのファンは大喜び。欧州ツアー後はバンド初のロシアへ移動、 2 公演を行った。
1 年半以上に及ぶツアー期間を経て、バンドは 6 枚目のフルアルバムとなる新作に向けての作業を開始。 2009 年 7 月 9 日に新作タイトル 『The Days Of Grays』 とカバーアートワークを発表、日本国内では 9 月 16 日にリリースを迎えた。その後、Dragonforce との一ヶ月に及ぶ北米ツアーに参加、11 月と 12 月はヨーロッパツアーに費やし、年末は初のオーストラリアにて年越しライブを敢行。こうして大忙しの 2009 年は幕を閉じた。
年明けの休みもほどほどに再びロードに出たバンドは、2008 年 10 月の Loud Park 以来となる日本公演を 1 月に計 5 公演消化、その後もフィンランド国内を含むヨーロッパ、ロシアを精力的にツアー。4 月には再び北米へと飛んだ。フィンランド国内を中心とする各種サマーフェスでも新作のプロモーションを行ったバンドは、10 月に 2 週間に渡る南米公演を成功裡に収める。
『The Days Of Grays』リリース後、休むことなくコンスタントにライブ活動を行うバンドの勢いは止まるとこを知らず、2011 年も 2 月から一ヶ月以上に渡る欧州ツアーをスタート。4 月には、3 週間以上に及ぶフィンランド国内ツアーが始まり、4 月 15 日に Oulu の Club Teatria で行われたコンサート(スペシャルゲストは TAROT)の模様は DVD 撮影されることに。バンド史上最大となるプロダクションが熱狂的ファンに披露されるとともに、ショーの一環としてプレイされたバンドメンバー全員によるアコースティックセットが非常に好意的に受け止められ、その後のショーでもファンからの予想外のリアクションに突如セットに組み込まれるほどに。
好例の夏のフェスティバルへの参加を経て、バンドはようやくツアーのペースを落とし、Oulu 公演の模様を収めたライブ DVD『Live In Finland』への準備へと入る。9 月 8 日にカバーアートワークとトラックリストが発表された。この DVD には、バンドの故郷である Kemi で開催された Sonata Arctica Festival、PV、大好評だったアコースティックによるパフォーマンス、その他ツアー・ドキュメンタリー、 メイキング映像等々、魅惑のコンテンツを収録。バンド 5 年振りとなるライヴ作品は、11 月 9 日に日本およびフィンランドで先行リリースを迎え、その後本国の音楽 DVD チャートで堂々 1 位を獲得。そしてバンドはニューアルバムの曲作りへ・・・。
2012 年 2 月 20 日に新作タイトル 『Stones Grow Her Name』 とカバーアートワークを発表、日本国内のリリースは 5 月 23 日に決定したが、これに先駆け新作からのファーストシングル『I Have A Right』が先行デジタル・シングルとして iTunes をはじめとする音楽配信サイトにて発表された。同シングルは後に CD でも発売されている。このアルバムはプリセールスの段階ですでに本国でゴールドを達成、米国のビルボード Heatseeker's Chart でも 9 位を記録している。
新作のリリースに伴うツアーを 11 月には欧州で、12 月には北米で行ったバンドは、年明け後には早速ロシア、日本、南米、英国を精力的に周り、そのまま夏のフェスティバルへ突入。計 31 カ国 95 公演を見事に消化したバンドではあったが、この長期間に渡るツアーの最中、長年バンドのベーシストだったマルコが個人的な理由からバンドの脱退を決意。8 月 26 日に正式に脱退を発表しファンを多いに驚かせた。
マルコの脱退発表と同時に、ヘンリックと共に SILENT VOICES でも活動するフィンランド人ベーシスト、パシ・カウッピネンがマルコの後任としてバンドに正式に加入。パシは『Live In Finland』のミックスも担当するなどバンドとも友好関係にあり、マルコ本人も「自分の後任にはパシ以外考えられない」と発言していることから、後任探しは非常にスムーズに進んだようだ。
バンドは休むことなく、9 月からすぐに通算 8 枚目のフル・アルバムとなる新作に向けての作業をスタート。曲作りを中心とした活動で年内を費やしている。『Ecliptica』のリリースからちょうど 15 年目を迎える 2014 年は、フィンランドと南米での「15 周年記念ツアー」で幕を開けた。パシのお披露目ツアーであると同時に、新作からの先行シングル『The Wolves Die Young』もリリースに先駆けライブ・デビューを果たしている。バンド・ロゴを以前のものへと戻し、新作アートワークでも再び「狼」が登場しているため、音楽性も初期路線に戻るのではないか、とファンの間で話題となる。
2 月 7 日の『The Wolves Die Young』の正式リリースから間もない同月 28 日にはさらにシングル第二弾となる『Cloud Factory』を発表。待望の新作『Pariah's Child』は 3 月 26 日に日本国内で発売される。4 月からは欧州ツアーがスタート。夏のフェスティバルや秋の北米ツアーやロシア・ツアーもすでに決定しており、新生ソナタの更なる活躍が期待されている。